2025/2/20

失うという幻想

 
先日、卒業試験のような「お試し」がありました笑
 
人は何かを手に入れると、それを失うことを恐れ始めます。
そして、いろいろな対策や保険や学習などを通して、さらに固執し、自由を失っていきます。そもそも、それを手にしたときに「これで自由だ」「これで安心だ」と、確かにそう感じていたはずなのに、です。
 
それが何故だか理解できていますか?というお試しでした。
 
昔の知り合いが、面白いことを言っていたのを覚えています。
 
「うちのばあちゃんは、健康のためなら死んでもいいって言ってるんだよ」
 
これを聞いて大笑いしたけれど、いやいや、地球上の人間は大なり小なり似たようなことをしているもので、私も笑っている場合ではなかったのでした。
 
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金銭、健康、人間関係。あっても無くても悩みはつきもの。
 
3次元のこの世には、時間や重力の大きな制限もあって、思い通りに現実を操れないところに学びがあるのでしょう。
 
では何を学ばないとならないのか。
 
委ねる。
降伏する。
恐怖という幻想を手放す。
見えない世界を信じる。
私たちは肉体がすべてではなく、魂の存在であるということに心を開く。etc.
 
地球という星は、源の存在との分離を体験するために、さまざまなトラップが仕掛けられており、私たちは皆ひとりであり、自力がすべてだと思い込まされています。
 
本当は、源と離れたことなど一度も無いのだとしたらどうでしょう。
本当は、自力を諦め降伏したとたんに、天からのサポートが入り始めるとしたらどうでしょう。
本当は、宇宙の壮大な計画のもと、宇宙の意思・意図を、自分という個を使って表現する場所なのだとしたらどうでしょう。
 
気が付いてしまったら、誰か一人が、自分たちだけが上手くいく社会は成り立たなくなります。人はみな、自分と同じく源の分身なのですから。
 
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使命感を持って行っていたとしても、思うように事が運ばなかった場合には、焦りや否定感が少なからず出てきます。その時に、その思いに乗っかったまま進めるのではなく、自分の真ん中・ハートの宇宙へ一旦帰り、思うようにいかないけれど、宇宙はこれで大丈夫なんだということに気づいて落ち着き、そこからもう一度始めていくのとでは、使っているエネルギーの質が正反対なのですね。
 
不安は不安な現象を、安心は安心な現象を生み出していきます。
 
外側に何かを求めた場合、もともと自分のものではなかったわけで、それを失う可能性を同時に孕みます。絶対の安心感(と思ったもの)と同じだけの、それを失う恐怖心を手にしてしまうのです。
 
対して、自分の中(ハートの宇宙)にそれを見つけた場合、それは完全な癒しとも言える静寂と満ち足りた感覚が訪れます。すでに全てを持ち合わせていたという、奇跡のような完全なプログラムに気が付くと、自身を見直す(肯定感が上がる)ことになったり、在り方というものに迷いが無くなったりもするでしょう。
 
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自分の「満足」というものを、外側のものに依存していると、それは「不安」に化けますが、この目では見えない/この頭では気づかない世界には、すべてがあります。
 
その世界と私たちは、不可分なのです。
 
先々のことに「必要以上に」心を砕いたり、自分以外の人の「しなくてもいい」世話に明け暮れたり、本当かどうか「定かではない」情報に振り回されたりして一日が過ぎていくのは、能動的ではありません。情報過多で流されがちな毎日を、意識的に選択し、平和で調和のとれた日常を創造していきたいものですね^^
 
(柄杓の下で陽射しから身を守っていた蛙。猛暑の智慧ですね…@遍照院)